角度がちがうじゃん
ポケベルは、ひと晩じゅう鳴らなかった。
ハチ公口の公衆電話の列がすっかりはけるまで、私はそこに立っていた。あの人みたいに腰にぶら下げて、親指でこすってもみた。さっきウシオの前では勝手に出ていたくせに、いざやろうとするとできなかった。私の親指は液晶の上で行き場をなくして、うろうろするだけだった。他人のくせは、その人の手の中にあるからかっこいいのだ。
日付が変わると、問題がもうひとつ増えた。私は、アマミヤ・ルカの家を知らない。ハニービーの子たちに「うちってどこだっけ?」なんて聞けるわけもない。私が知っている道は、コンドウじいさんの店からここまでの一本だけだった。
だから、来た道を逆にたどった。
センター街の大通りは、まだうるさかった。なのに一本曲がっただけで、音がぷつりと消えた。看板の明かりが半分死んだ裏通りだった。シャッターの下りた店のあいだを、風がチラシを転がしていく。そういえば、マコトが言っていた。日が暮れたら、センター街の裏通りはちょっと避けていただけたら、って。
ここが、その裏通りだった。
ブオォン。
後ろからヘッドライトが差して、私の影が前へ長く伸びた。バイクが二台、私をかすめて追い越し、十歩ほど先でキッと止まった。
「えっ? えええ? ルカさん? ルカさんっすよね? こんな時間にこんなとこ、いや俺らはいまゼロの連中のファックスのせいで見回り中なんだけど? あ、なんですけど? でもよりによって裏通りでハニービーのエースにお会いするとは、これは運命、いや事故、とにかくつまり……」
前のバイクのマコトだった。後ろの席から誰かが降りた。こっちは見なかった。
「マコト。回れ」
「え? ヘッドは? ヘッド抜きで俺ひとり、どうやってセンター街ぜんぶを……」
「センター街。一周」
マコトは口を閉じて、ハンドルを切った。エンジン音が路地の向こうへ抜けていくと、空いた場所を私の心臓の音が埋めた。残ったのはひとりだった。黒いジャンパーに、腰の銀色のポケベル。顔は路地の奥へ向けたままだった。
「……裏通り」
ひと言だった。きのうマコトが十倍にふくらませていた忠告を、今度は原本で聞いたことになる。あのときは「言ってない」ってことになってたくせに。
マコトがいないから、通訳は私の役目だった。ここには来るなって言っただろ。でも、声に怒りはなかった。叱る言葉はふつう語尾が上がる。この人の言葉は、語尾が床まで沈んでいた。叱る声じゃなくて、確かめる声だった。ほんとに来たのか、っていう。
「……来い」
彼が歩きだした。私より半歩前を。
路地のなかほど、閉まった飲み屋の前で、男がふたりしゃがんでタバコを吸っていた。ひとりが顔を上げ、彼を見て、またうつむいた。彼は足をゆるめもしなければ、速めもしなかった。ただ、その前を通るあいだだけ、彼の肩がほんの少し私のほうへ傾いた。だから私と男たちのあいだには、黒いジャンパーが一枚はさまっていた。通り過ぎると、肩はもとに戻った。
ひと言もなかった。なのに、今日聞いたどんな言葉より大きく聞こえた。
喉もとまで上がってきた言葉がひとつあった。さっきの数字、届きました? ゼロ、ハチ、ヨン、ゼロ。おはよう。あれ、私です。
「あの、さっきの数字……」
彼の親指が、腰のポケベルの上で止まった。こすっている途中だったのか、ちょうど触れようとしたところだったのか、わからない位置でそのまま固まった。
「……歩け」
私が言い終わるより先だった。怒った声ではなかった。聞きたくないのか、聞かなくてもわかっているのか、わからなかった。どっちだとしても今夜のうちに受け止める自信がなくて、私は口を閉じて歩いた。彼の親指は、路地の終わりまでその場所から動かなかった。
分かれ道で、彼が止まった。
左はもっと暗くて、右は少しだけましだった。彼は何も聞かなかった。家はどこだとも、どこへ行くのかとも。頭の上の街灯がジジッと鳴って消えて、またつくまで、ただ立っていた。
待っているのだ。私が言うまで。
「……コンドウじいさんのとこに行きます。フォト・イン・コンドウ」
言ってから、耳がカッと熱くなった。家じゃなくて写真屋って。彼は聞き返さなかった。
「……こっち」
左。暗いほうだった。あの背中についていけばいいんだから、暗くたって関係なかった。
口から、別の言葉がこぼれた。
「……寒い」
ひとりごとだった。一九九九年十二月の夜風は、ミニスカートに手加減してくれない。
「……早く」
早く歩け、って意味だった。なのに彼の足取りは、ちっとも速くならなかった。あいかわらず私の歩幅に合わせた、半歩前。早く中に入ってあったまれってことなのか、早くって言っておいて自分はゆっくり歩くってことなのか。通訳がふたつ出てきて、どっちも気に入ってしまって、ひとつに絞れなかった。
角を曲がると、半分下りたシャッターが見えた。すき間から漏れた蛍光灯の光が、地面に一本敷かれている。フォト・イン・コンドウだった。
彼は角で止まった。店のほうへは、一歩も進まなかった。
「……ここまで」
線を引く言葉だった。ここから先はお前の道、ここまでは俺の道。でも、私をここまで連れてきて、その線を引いてくれたのも彼だった。
「ありがとうござ……」
「……もういい」
きのうは「いい」で、今日は「もういい」だった。たった二文字なのに、ずっと硬かった。私はシャッターのほうへ二歩行きかけて、振り返った。今じゃなきゃ聞けない気がした。
「あの、さっきの……」
「……入れ」
彼はもう背中を向けていた。ジャンパーのポケットの中で拳が一度握られて、ほどけるのが、布越しに見えた。何歩か行ってから、ひと言が一拍遅れて落ちてきた。
「……夜だ」
夜だから入れってことなのか、夜に打てと言ったあの夜がまだ終わっていないってことなのか。私は通訳をあきらめた。心臓のほうが先に返事をしてしまったから。
彼は角の向こうへ消えた。
シャッターの下から、コンドウじいさんが首を突き出した。角のほうには目もくれなかった。
「また来たのか、アマミヤ・ルカ学生さん。こんな夜更けに」
「あの……家が、わからなくて。笑えますよね」
二十六にもなって言うセリフか。じいさんは眉ひとつ動かさず、店の奥の長椅子を顎でしゃくった。
「そこの長椅子で寝な。隅の機械には触るんじゃないぞ」
なんで家がわからないのかも、どこから来たのかも聞かない。明日世界が終わるって言われても、「さあねえ」とネジでも回していそうなじいさんだった。
長椅子は硬くて、酸っぱい印画紙の匂いがした。そのすぐ前に、隅のいちばん古い機械が立っていた。電源ランプは消えている。その脇腹に、色あせた見本のシールが一枚貼ってあって、ふちを銀色の星がぐるりと囲んでいた。ほかの機械にはない模様だった。
「おじいさん。あの星の模様って?」
じいさんが、喉の奥でくっくっと笑った。
「さあねえ。古い機械には、どれも曰くがあるもんさ。ほれ、電気消すぞ」
カチッ。蛍光灯が消えた。
店の中が真っ暗になると、シャッターのすき間の向こうがかえってよく見えた。角の街灯の下、地面に影がひとつ長く寝そべっていた。角の向こうに立つ、誰かの影だった。
影は、明かりが消えてからもしばらく動かなかった。店の中が静かになったのを確かめでもしたみたいに。それから、街灯の光の外へ抜けていった。
ここまで、って言ったくせに。
私はポケベルを胸の上にのせて、目を閉じた。閉じたまぶたの裏で、影がひとつ、ずっと角に立っていた。
夢は、また来た。雨の路地、うつ伏せに落ちた銀色のポケベル、ひびの入った液晶に光る0840。あの路地がさっきの裏通りに似ていたかどうかは、雨音にまぎれてわからなかった。今度も日付はなくて、今度も朝が来る前に終わった。
「学生さん、起きな。外にうるさいのが来とるぞ」
目を開けると、ガラス戸の向こうで誰かがぴょんぴょん跳ねていた。目もとのパールが朝日を浴びて、ギラッと光る。ハニービーのリーダー、アユだった。その後ろで、末っ子のモモが手帳を抱きしめて立っていた。
目の前に、緑の画面が浮かんだ。
【1999年12月2日 木曜日/晴れ】 【街の噂:高】 【世紀末まで残り:29日】 【タチバナ・レン/気持ち: 】 【受信感度:最後まで測定不能】
30が29になった。一日、ほんとに減った。気持ちの欄は、今日も空っぽだった。
腰のポケベルは暗かった。おはようって送ったのに、朝が来ても返事はなかった。
「ルカちん!!」
ドアが開いたとたん、アユが私の腕にぶら下がってきた。
「きのうどこ消えてたの! 家に電話しても出ないじゃん! 特訓初日からサボったじゃん! だから今日は倍ね! 行くよ、イチマルキュー!」
「ここ、なんでわかったの……」
モモが手帳をちょっと持ち上げてみせた。
「ルカ先輩、おうちにいないときはここだって……私、書いておいたんですよ?」
コンドウじいさんはくっくっと笑いながら、ドライバーを回しているだけだった。ルカって、もともとここの常連だったの? 私はあの手帳が少し怖くなった。私の知らないルカが、あそこに全部書いてありそうで。
イチマルキューは、円筒形のガラスのビルだった。朝日がガラスに跳ね返って、目にしみる。その前の歩道で、ギャルたちがショーウィンドウのガラスに自分の姿を映しながら、何かを練習していた。
アユが地面に銀色のラジカセをドンと置いた。肩にかついで歩く、大きなカセットラジオだ。ボタンを押すと、速くて、高くて、無駄にアガる電子音があふれ出した。
パラパラ。脚はほとんど使わないで、腕だけで踊るダンスだ。動画では簡単そうに見えた。
「せーの、ワン、ツー! 右腕上! 手首返して! 左!」
私が右腕を上げると、アユはもう左。左に行くと、アユは回っていた。ハニービーのエースの体なのに、腕にも脚にも、リズムがひとつも残っていない。他人の家に上がりこんだら、家具がひとつもなかったみたいだった。
「角度! 角度がちがうじゃん!」
アユが私のひじをつかんで、ぐいっと曲げた。
「手首は四十五度! ひじは肩より上! 目線は指先じゃん!」
「指先見てたら、前が見えないんだけど……」
「ギャルは前なんか見ない! 指先見る!」
私は指先を見た。そして前が見えなくて、ラジカセを蹴っとばした。音楽がぶつっと切れて、また鳴りだす。通りがかった男子高校生がふたり、くすくす笑った。モモがそばで手帳を開いて、ささやいた。
「ラジカセ蹴ったの……書いておきますね?」
そんなことまで。
ショーウィンドウの手すりに、チナツがもたれていた。踊りはしないで、腕を組んで、私だけを見ていた。笑いもしない。いっそ笑ってくれたほうが、まだ怖くないのに。
そのとき、車道のほうでブオォン、と音がした。
バイクが二台、信号に引っかかってイチマルキューの前に止まった。前のバイクの誰かがガバッと立ち上がって、手を振った。
「ルカさん! おはようございます! 特訓っすか? さすがハニービー! ゼロの連中のファックスのせいで、いま渋谷じゅう大騒ぎなんだけど? あ、なんですけど? それで俺らひと晩じゅう見回りして、ヘッドはつまり……」
テラダ・マコト。ムゲンのナンバー2。ひと息で、文が五つ。
おはよう。ゆうべ私が公衆電話で押したまさにその言葉が、見当ちがいの人の口から、でっかい声で飛んできた。心臓が一度、ずしんと落ちた。
後ろの席に、あの人がいた。顔はイチマルキューじゃなくて、車道の向こう側を向いている。見えるのは前髪と、顎の先だけだった。
「マコト」
「はい、黙ります」
五つの文は、一音もはみ出さずにそこで途切れた。
私は腕を上げたまま固まった。右腕は四十五度、目線は指先。その指先の向こうに、レンがいた。ゆうべ飲み屋の前で肩まで傾けてくれた人が、今朝は首ひとつこっちへ回さなかった。
「ルカちん! ツー! ツーで回るんじゃん!」
体を回した。右足が左足を踏んで、左足が右足を引っかけた。世界が半回転、傾いた。
ドスン。
お尻が歩道のブロックにぶつかった。ルーズソックスが靴の下までずり落ちる。通りがかった女子高生たちが「えぇ?」と声をあげた。ハニービーのエースが、イチマルキューの前で尻もち。街の噂の欄は、もともと「高」だった。これ以上は上がりようがない。それがよかったのかどうか、よくわからない。
信号が青に変わった。車が動きだした。
バイクは二台とも、動かなかった。
マコトがハンドルを握ったまま、ちらっと後ろを振り返った。後ろの席は黙っていた。私は冷たいブロックにお尻をつけたまま、それを見ていた。青が点滅して、赤に戻った。なんで行かないの?
二度目の青がついた。車の音のあいだに、低い声がひとつ落ちた。
「……出せ」
私のほうじゃなくて、バイクの前に向けた言葉だった。二台が走り出した。レンは最後まで、こっちを見なかった。
やめちゃおうか、と思った。でもこの街で私が持っているのは、ルカっていう名前ひとつだけだった。
それに正直、腹が立った。信号を一回まるごと見送っておいて、最後まで見もしない人に。いいよ、見なくて。見ないではいられなくしてあげるから。
……いや、ちょっと待って。あの人に見せるために踊るんじゃないし。
この体はパラパラを知らない。でも私は、別のものを知っている。書類選考で落ちた夜のたびに、部屋でひとり寝転がってスワイプしてきたショート動画のダンスは、一つや二つじゃなかった。
私は立ち上がって、ルーズソックスを適当に引っぱり上げた。
「アユ。音楽、最初から」
腕はアユについていった。手首は四十五度、ひじは肩より上。そこまではパラパラ。脚がついていけないところには全部、私の知っているやつをはめこんだ。リズムに合わせて、人差し指で空をツンツン。親指と人差し指で小さなハートを作って、胸の前でちょんと弾く。両手で顔を隠して、パッと開いて、ウインクひとつ。
未来じゃ、こういうのを「チャレンジ」って呼ぶ。みんなでまねして踊る、短いダンスだ。
最初はくすくす笑いが聞こえた。それから、静かになった。
「なにあれ?」
「新作? 新しいステップ?」
女子高生がひとり、私の指ハートをまねした。隣の子もまねした。さっきくすくす笑っていた男子高校生ふたりが、拍手した。音楽が終わったとき、イチマルキューの前に小さな輪ができていた。私を囲む輪だった。
息が上がって、肩が弾んでいた。決まった? うん、決まった。
そして、目が勝手に動いた。輪の向こう、さっきの信号の下へ。バイクはいなかった。当たり前だ。二度目の青で行ったんだから。当たり前なのに、喉の奥がつんとした。
アユが口をぽかんと開けて立っていた。
「ルカちん……それ……なに?」
「あ、これ? 新作だよ。私が作ったの」
嘘だった。正確には、まだ生まれてもいない人が作ったダンスだ。
アユの顔が、ものすごく複雑になった。感動しているようでもあり、怒っているようでもあり、泣きそうでもあった。
「チョベリ……ちがう! 角度! それでも角度はちがうじゃん!」
吹き出して、顔をそむけた。そして、そこで止まった。
通りの向こうの角に、バイクが二台止まっていた。行っちゃったと思ったのに。マコトはタバコの自販機の前で缶を取り出している。レンはバイクの横に立っていた。こっちに背を向けて、反対側を見て。
マコトが声を張りあげた。通りのこっちまで全部聞こえた。
「ヘッド! いまのルカさんの見ました? 指でハートをちょんって、こう、イチマルキューの前でいま輪が……」
「……見てねえ」
背を向けたままだった。低い声が、車の音のあいだを正確に渡ってきた。
「あ、見てないっすよね。信号二回スルーしましたけど、見てないっすよね。はいはい」
笑いを飲みこもうとして、むせそうになった。その二回を、私は地べたに座って全部見ていた。見ていない人は、輪がいちばんよく見える角に立ったりしない。この通りで、あれが嘘だと知っているのは私ひとりだった。それがなぜか、誇らしかった。
マコトは調子に乗って、缶を脇にはさんで両手を上げた。
「でもこれ、こうやるんすよね? 親指と人差し指をこう、ちょん……」
「……やめろ」
マコトの指ハートが、自販機の明かりの下で半分折れたまま固まった。
私はまばたきした。なんで? マコトがやるのが見てられないから? それとも、あれがさっきあの輪のまんなかで私がやってたやつだから? どっちかわからなくて、耳のほうが先に熱くなった。
レンの親指が、腰のポケベルを一度こすった。そこで親指が、一拍止まった。
その一拍のあいだに、背を向けた彼の顎の先が、半分だけこっちへ来た。それから、戻った。見たんじゃない。見ようとして、やめたのだ。
「……行くぞ」
レンはバイクにまたがって、角の向こうに消えた。親指が止まったのが私のせいだったのか、ただのくせだったのか、わからない。わからないことが、こんなに気になるとは思わなかった。
ファミレスの窓際の四人席。シールだらけのテーブルに、アユが紙を一枚広げた。いちばん上にマジックで「ハニービー今週の序列」と書いてあった。
「毎週木曜に発表じゃん」アユの声が、いつもより半音低かった。「ステップと角度と、雑誌のアンケート、全部足したやつ」
アユがいちばん上の欄のシールを、爪でそうっとはがした。ピースしたルカだった。アユはそれを、いちばん下の欄に貼り直した。
ビリだった。さっきのイチマルキューの前の輪は本物だった。でも序列表に、「輪」の欄はない。
「だから今週のハニービーのエースは……なし!」
モモが小さく「あ……」と声を漏らした。「ルカ先輩がビリなんて……初めてです」
「でも!」アユがストローをタンと置いた。「あの指! ハート、ちょんってやつ! 来週までにあたしに教えて! あれパラパラに入れたら、うちらがこの街でいちばんじゃん!」
ビリになって、宿題をもらった。落ちたのはルカの名前の値打ちで、宿題をもらったのは私だった。なぜか、気分は悪くなかった。
「それと、聞いたでしょ? ゼロがムゲンに挑戦状送ったって」アユが声をひそめた。「ミレニアムの夜に、センター街を懸けるんだって。負けたほうはこの街から出てくんだって。うちらは首つっこんじゃダメ。ギャルサーは中立だから。わかってるよね、ルカちん?」
私はうなずいた。うなずきながら、ゆうべのあの角を思い出していた。あのファックスのせいで、あの人はひと晩じゅうこの街を回っていた。その途中で裏通りの私を拾って、写真屋の前まで送り届けて、言ったのだ。
「……ここまで」
線を引いたのは、あの人だった。そのくせ、線の外側で、明かりが消えるまで立っていた。そこに、別の声が重なった。ア、マ、ミ、ヤ、さん。受理されました。
もう、首つっこんでる気がするんだけど。
アユがソックタッチを買いに行こうと言って、モモを引っぱって出ていった。モモは引きずられながらも、一度だけ私を振り返った。テーブルには、私とチナツだけが残った。
チナツは一日じゅう、ほとんど口をきかなかった。今もストローを噛んでいるだけだった。
「あんた」
低くて、短かった。笑いのかけらもなかった。
「さっきのダンス。どこで覚えたん」
「あ、あれ……私が作ったんだってば」
「笑わせるわ」
チナツはストローをコップに戻して、財布を取り出した。内側の透明なポケットから、シールを一枚そっと抜き出す。それをテーブルに置いて、指二本で私の前まで滑らせた。
プリクラだった。
ルカが、ひとりで写っていた。ピースもない。笑ってもいない。序列表のルカと同じ顔なのに、パールがひとつも光っていなかった。薄暗い機械の中で、レンズをまっすぐ見ていた。ハニービーのエースじゃなくて、どこへ行けばいいのかわからない人の顔だった。
そして、その顔を銀色の星のふちが、ぐるりと囲んでいた。
ゆうべ私が寝た長椅子のすぐ前、明かりの消えたあの機械の脇腹で見た模様だった。ほかの機械にはない模様。
下の隅に、サインペンで日付が書いてあった。
11.30.
私がこの体で目を覚ます、ちょうど前の日だった。
「あんたあの日、しんどい言うてたやんな。うちに電話で。一日じゅう家で寝とったて」
チナツの声が、もう一段低くなった。もう一拍、遅くなった。
「せやのに、なんでこれがうちの手にあるん」
私は答えられなかった。写真の中のルカも答えなかった。笑わない顔で、私を見ているだけだった。答えは、半分わかっていた。だからよけいに、口を開けなかった。
チナツがテーブルの上に身を乗り出した。息づかいが聞こえるくらい近かった。
「ひとつだけ聞くわ」
テーブルの下で、私の親指がピンクのポケベルの液晶をこすっていた。いつからだったのか、わからない。ゆうべ「ここまで」と言って背を向けたあの人のくせだった。今度は、うろうろしなかった。いまここで私をつなぎとめてくれるのは、それだけだった。窓の外で、センター街の看板にひとつずつ明かりがついていく。
「この日、あんたどこにおったん」
第2話 おわり




