シャッター音
最初に聞こえたのは、雨の音だった。
狭い路地だった。看板のネオンが濡れたアスファルトににじんで、足もとは一面のピンクと青。水たまりに、くしゃくしゃの紙切れが一枚浮いていた。サインペンで書いた数字が、雨に溶けて流れ落ちていく。
そして、人がひとり倒れていた。顔はむこうを向いている。濡れた前髪、力の抜けきった手。その手のそばに、銀色のポケベルが伏せて転がっていた。
ピ、ピ、ピ。
鳴るたびに、ポケベルはアスファルトの上でブルブル震えて、半分ひっくり返った。ひびの入った液晶に、緑の光がともっている。数字が四つ。
ゼロ。ハチ。ヨン。ゼロ。
私はその人の名前を呼ばなきゃいけなかった。呼ばなきゃいけない、ということだけはわかっていて、名前は知らなかった。口を開けても、入ってくるのは雨の音ばかり。夜は明けなかった。この夢はいつも、そこで終わる。朝が来る前に、日付もないまま。
「……また、あの夢か」
枕もとのスマホには、「ハン・ジユ様 貴殿のご経歴は大変優秀ではございますが……」で始まるメッセージが届いていた。二十六歳、就活三年目。毎朝、私にいちばん先におはようを言ってくるのは、いつもこの手のメッセージだ。
夢が始まったのは二週間前。ソウルのウルチロにあるガラクタ屋で、レジ横の「昔のシール 一枚三千ウォン」と貼り紙した箱から、あれを拾い上げた日からだ。
1999の数字が刷られたプリクラ。日本のゲーセンにあった、あのインスタント写真シールだ。真っ黒に焼いた顔に白いアイシャドウ、ほとんど白に近い金髪。ミームでしか見たことのないギャルのお姉さんが、ピースしていた。隣の男の人は顔がフレームの外に見切れていて、肩と顎の先しか残っていない。下の隅には、サインペンで0840。
ポケベルの暗号だった。意味は検索が教えてくれた。その夜から、あの夢を見るようになった。
だから今日、もう一度行ってみた。店番のおばあさんは留守で、かわりに店の隅にそれがあった。ビニールのカーテンが半分破れた、ボロボロのプリクラ機。プラグは床に抜けて転がっているのに、電源ランプがついていた。
入っちゃいけなかった。でも人間、一度気になるとそうなる。カーテンをめくって中に入り、シールを画面の前にかざしてみた。見切れた男の人の肩が、私の指先に触れた。
コインも入れてないのに、画面の数字が減っていった。3。2。1。
カシャッ。
シャッター音が、耳のすぐ横ではじけた。世界が真っ白になった。
蛍光灯がジーッとうなっていた。
目を開けると、別の店だった。古いプリクラ機が三台、熱をもった印画紙の匂い。ガラス戸の外はもう真っ暗だ。隅のテレビでは、夕方のニュースのアナウンサーが、ノストラダムスを天気予報みたいに読み上げていた。明日は晴れ、世界はひと月後に終わるかもしれません、だそうだ。日本語だった。なのに、全部わかった。それがいちばん怖かった。
シールも、財布も、スマホもない。かわりに、機械の横の鏡に誰かが立っていた。
真っ黒に焼いた肌、まぶたに白いパール、ブリーチした金髪。チェックのミニスカートの下で、白い靴下が足首までしわしわにずり落ちている。腰にはピンクのポケベル。頬をつねったら、鏡の中のギャルも痛そうな顔をした。
……いや、ちょっと待って。この顔、シールでピースしてた、あのお姉さんじゃん。
「起きたか、学生さん」
カウンターの奥で、おじいさんがドライバー片手に機械の裏板をいじっていた。私を見ても、眉ひとつ動かさない。
「ここ、どこですか? 私、さっきまでウルチロに……」
「渋谷」おじいさんはネジを一本抜きながら言った。「フォト・イン・コンドウ。で、わしがコンドウ」
レジ横の日めくりに、大きな数字が刷られていた。1999年12月1日。
「私、帰らなきゃいけないんです! あの機械に入ったら、急に……」
コンドウじいさんは、そこでやっと顔を上げた。そして私を見るかわりに、隅のいちばん古い機械を顎でしゃくった。
「帰りたいのかい。なら、あの機械だ」
「はい! 当たり前じゃないですか!」
じいさんはぜいぜいと喉を鳴らして笑うと、またネジを回しはじめた。
「帰り道の扉も、タダじゃないぞ。近頃フィルム代がどれだけ上がったか、知っとるか?」
返事はそれだけだった。隅のその機械はカーテンに破れひとつなく、電源ランプは消えていた。
外はセンター街だった。看板が何層にも積み重なった夜の通り。雨が上がったばかりで、どの路面にもネオンが溜まっている。駅のほうの緑の公衆電話には、長い列ができていた。公衆電話に。人が。並んでる。「Y2K渋谷エモい」動画の中に入りこんだ気分だった。スキップボタンがないことを除けば。
だから、見逃した。路地から男が三人、ついてきたのを。
「おい。お前、ハニービーのアマミヤ・ルカだろ?」
アマミヤ・ルカ。この顔の名前らしい。三人は私を塀のほうへ追いつめた。
「ハニービーのエースなら、金もそこそこ持ってんだろ。財布見せろや」
「通報しますよ」
堂々とポケットに手を突っこんで、そのまま固まった。スマホがない。当たり前だ、1999年なんだから。指に触れたのは、リップグロスがひとつと、「50」と刷られたテレホンカードが一枚。通報するには、あの公衆電話の列のいちばん後ろに並ぶしかなかった。
男のひとりが、私の手首をつかもうとした、そのときだった。
ブオォン。
バイクが二台、水たまりを蹴散らして路地の入り口に曲がりこんできた。泥水がザッと跳ねる。前のバイクが止まりきる前に、後ろの席から誰かが飛び降りて、その手が私の手首をさらった。体が半回転する。さっきまで私が立っていた場所を、後ろのバイクのタイヤが滑っていった。
手首をつかんだ手は冷たくて、すぐに放された。
「どけ」
低い声だった。大きくもない。その人は私を見ずに、私の肩越しに三人を見ていた。黒いジャンパーに濡れた前髪、その下で斜めにそむけた顎の先。腰には、銀色のポケベル。
何かが喉に、ぐっと引っかかった。それが何なのか考える暇はなかった。
三人のうちひとりが、ごくりと唾をのんだ。「ムゲン……ムゲンのヘッドだ。タチバナ・レン」
それで終わりだった。三人は路地の奥へ散っていった。映画なら一発くらい殴るところなのに、この人はただ立っていただけ。立っているだけで足りる人だった。
散っていく背中に、その人がひと言だけ投げた。
「ハニービーに、手ぇ出すな」
路地の奥から、「は、はいっ!」とこだまみたいな声が返ってきた。
「あ、ありが……」
「……いい」
こっちを見もしないで言った言葉だった。なのに、前のバイクから降りた男がすっ飛んできて割りこんだ。
「待った待った待った、ルカさん、はじめまして、いやはじめてじゃないんすけどとにかく、チーム・ムゲンのナンバー2、テラダ・マコトです! つまりですね、今のヘッドのお言葉は、『いい』ってのがただの『いい』じゃなくて礼なんかいらねえってことで、それとさっきの『ハニービーに手ぇ出すな』はですね、最近この辺によそ者が入りこんでるんで、ハニービーの皆さんも日が暮れたらセンター街の裏道はちょっと避けていただけたらっていう、とにかくそれがムゲンの公式見解なんだよ? あ、なんですよ?」
たったふた言を、ひと息で十倍にふくらませている。笑いが漏れないように、私は唇をぎゅっと結んだ。
肩越しに、ひと言が落ちてきた。
「……言ってねえ」
「あ、おっしゃってないっすね。はい。行間っす、行間」
マコトは真顔でうなずいた。私はとうとう鼻から笑いが漏れた。その人は振り返らなかった。かわりに歩きだした。信号の光がにじむ、大通りのほうへ。
「あ、ルカさん、大通りまでお送りしろってのが、ヘッドのお言葉なんすよ?」
ヘッドは何も言っていない。沈黙まで通訳する人を、私は初めて見た。
その人は、私より半歩前を歩いた。きっちり半歩。振り返りもしないし、歩幅をゆるめもしないのに、ついていく私の速さにぴったり合っていた。
「押してこい」
後ろのムゲンの連中に向けた言葉だった。エンジンを切ったバイク二台が、ずるずる押されてついてくる。ヘッドが歩けば、バイクも歩くらしい。
狭い路地は思ったより長かった。私はこっそり足を速めて、隣に並んでみようとした。顔を見たくて。ほんとにただの、学術的好奇心で。
「……下がれ」
前を向いたままだった。私は反射的に半歩下がった。
訳すと、「俺の後ろにいろ」。これって命令? それとも心配? マコトなら十文くらいひねり出しただろうけど、私は一文もひねり出せずに、耳だけ熱くなった。
路地の出口で、割れた瓶のかけらがネオンを受けて光った。
「……足もと」
私は瓶のかけらをまたいだ。その人は私を見ていない。見てもいないくせに、なんで私の足もとがわかるわけ?
路地の突き当たりの店のショーウィンドウに、ブラウン管テレビが十台くらい積まれていて、全部同じノストラダムスを流していた。2026年の人間としては、どうしても素通りできない光景だ。足が勝手に遅くなった。
「……おい」
名前でもなければ、ルカでもない。なのにそのひと言に、足のほうが先に動いた。小走りで、半歩うしろにまたくっつく。
そのときだった。前を行く足取りが、ほんの一瞬だけ遅くなった。私が息を整えられるぶんだけ。それから何事もなかったみたいに、元の速さに戻った。
犬になった気分だった。いや、それが嫌じゃないのが、余計にまずかった。
大通りに出ると、空気が変わった。人の声、車の音、信号の青が、いっぺんに押し寄せてくる。その人は横断歩道の前で止まった。
「そこで待ってろ」
ムゲンの連中がバイクを止めた。
その人が、私の前に来た。顔はあいかわらず斜めにそむけたまま。私の手を取って持ち上げ、手のひらに何かを押しこむ。紙だった。クシャ、と音がした。
それから、その人の指が私の指を一本ずつ折っていった。小指、薬指、中指、人差し指、最後に親指。紙切れが私のこぶしの中にすっかり閉じこめられるまで。一本折られるたびに、冷たい指先が手のひらを一度ずつかすめた。なのに、熱くなっていくのは私の手のほうだった。
「打て。夜に」
その人が手を引いた。私はこぶしを開いた。手帳の隅を破った紙に、サインペンで数字が十個。たぶん、この人のポケベルの番号だ。前のほうはただの数字だった。最後の四桁で、目が止まった。
「ゼロ」
口が先に動いた。
「ハチ。ヨン。ゼロ」
0は丸い形だから「オ」。8はハチの「ハ」。4はヨンの「ヨ」。最後の0は音を出さずに、前の「ヨ」を長く伸ばす。検索画面で文字としてしか見たことのなかったルールが、私の口の中で音になって、つながった。
「オ。ハ。ヨー」
おはよう。朝のあいさつだ。
夜に打てと渡された番号が、おはようで終わっていた。そのちぐはぐさが、なぜか胸のまんなかをちくりと刺した。聞くことはできなかった。聞いて答えてくれる人じゃなかった。
「……ハチ公」
一拍遅れて飛んできた言葉だった。私は顔を上げた。
「え?」
「公衆電話」
聞いてもいないことを教えてくれた。さっき私があの列のいちばん後ろを見ながら、思いきりしかめっ面をしてたのを見てたんだろうか。
それから、うなじがひやりとした。夢の中で伏せて転がっていた銀色のポケベルが、今、この人の腰で信号の光を受けていた。
手がゆるんだのか、紙切れの端が風にひらりと浮いた。
「……握ってろ」
私はもう一度、こぶしをぎゅっと握った。あの人が折ってくれた、そのとおりに。
その瞬間、目の前に緑の画面がぱっとついた。昔のポケベルの液晶みたいな、ぼんやりしてダサい緑。私にしか見えていないのは間違いなかった。マコトはその画面のむこうで、平気な顔でヘルメットのあご紐をいじっていたから。
【1999年12月1日 水曜日/雨上がり】 【街の噂:高】 【世紀末まで残り:30日】 【タチバナ・レン/気持ち: 】 【受信感度:最後まで測定不能】
気持ちの欄だけが、空っぽだった。日付も天気も、街の噂まで測ってくれるくせに、この人の気持ちだけは測れないんだって。しかも「まだ」じゃなくて、「最後まで」。
それに、夢には日付がなかった。あの夜が残り三十日のどのあたりにあるのか、私は知らない。
「……名前」
肩越しに、ひと言が飛んできた。尋ねているのに、語尾が上がらなかった。
「あ、ヘッドが言いたいのはつまりお名前を、いやルカさんのお名前なんて渋谷じゅうが知ってますけど、それでも一応、正式にいっぺん……」
「マコト」
「はい、黙ります」
ぷつっ。ほんとに刃物で切ったみたいに止まった。私はあの人の横顔を見て、口が先に動いた。
「ジ……」
舌先に引っかかった自分の名前を、のみこんだ。ここでは、その名前じゃない。
「……ルカ。アマミヤ・ルカ」
あの人は繰り返さなかった。なんで「ジ」だったのか、とも聞かなかった。かわりに、小さく喉を鳴らした。
「……んん」
名前のかわりに、咳払いがひとつ。親指が腰のポケベルを一度こすった。それから信号の光の下で、前髪の影が下へ傾いた。私の顔のほうじゃない。私の腰。半分ひっくり返って、ハートのシールを貼った裏側を見せていたピンクのポケベルのほうだった。一拍そのままでいて、影はまた車道のほうへ戻っていった。見間違いじゃないか確かめる暇もなかった。
横断歩道の信号が青に変わった。ルーズソックス、ショップ袋、いくつもの肩が、どっと私たちのあいだを流れていく。ムゲンの連中が、バイクのエンジンをかけ直した。
「先に行け」
マコトがヘルメットを持ち上げかけたまま、目をぱちぱちさせた。「え? ヘッドは? ヘッドをひとり置いてったら、俺、みんなに何て……」
「行け」
マコトは口を閉じてバイクにまたがった。エンジンの音が遠ざかっていく。あの人は行かなかった。信号の下に、そのまま立っていた。顔を半分そむけたまま。
一拍。二拍。
青信号が、点滅しはじめた。
「……夜に」
車道のほうを見たままだった。さっきの言葉を、もう一度言ったのだ。何でもひと言で終わらせる人が、一拍遅れて、同じ言葉を繰り返した。訳すと……訳せなかった。ただ、心臓がドクンと鳴った。
「ルカちん!!」
通りのむこうから、悲鳴みたいな声が飛んできた。そっちを振り返って、もう一度顔を戻したときには、あの人はもう道の向こう側にいた。ポケットに手を突っこんで、何もなかったみたいに。
悲鳴の主は私と腕を組むと、ほとんど引きずるように連れていった。ファミレスの窓際の四人席、シールがべたべた貼られたテーブル。ここがギャルサー、ハニービーの会議室なんだって。
「ルカちん! 聞いた? ムゲンのヘッドが『ハニービーに手ぇ出すな』って言ったって! もうセンター街じゅうに回ってるし!」
街の噂、高。私はテーブルの下でこぶしを握った。紙切れが、その中でカサッと鳴った。
「でさ、そのあと何て言ったと思う? なんにも言わなかったんだって! ただ立ってたんだって! 超チョベリクールじゃん!」
私は笑いかけて、やめた。なんにも言わなかったわけじゃない。夜に、って言った。二回も。それはこの街の噂のどこにもなかった。私だけが聞いた言葉だった。
「それにお披露目の特訓、今日からじゃん! てかあんたこれ、ルーズソックス! 角度ちがうし!」
その子はカバンから三十センチの定規を取り出した。ほんとに定規だった。私の足もとにしゃがみこんで、靴下のしわに定規を当てて、眉間にしわまで寄せている。
「見て! チョベリグまであと3センチ足りないじゃん! 3センチでハニービー終わるし!」
生きるか死ぬかの顔だった。私はメニューで口もとを隠して、それから、つい口が滑った。
「あ、これ? これね、そのうちまた流行るよ。2020年代にY2Kとか言って完全に戻ってきて……」
向かいの席で、コップをタンと置く音がした。
「アユ、もうええから立ち」
定規を持った子が、唇をとがらせて立ち上がった。アユ。ハニービーのリーダーだということは、五分で本人の口から三回聞いた。
コップを置いた子は、笑いのかけらもない顔で私を見た。
「あんた、その喋り方どないしたん」
「チナツ、またそれ!」
チナツはアユの声を聞き流して、テーブルの上に身を乗り出した。
「ええわ。ひとつだけ聞くで。あんたとうちが初めてプリ撮った日。あれ、いつやった?」
終わった。そんなの、私にわかるわけない。
「あ、それ知ってる。それは……春だったよね。春。チョベリ春」
「春のいつや」
チナツの声が一段低くなって、一拍遅くなった。背中を冷や汗がひと筋つたう。そのとき、隣の席で手帳をめくる音がした。
「……4月2日です」
いちばん端の席の末っ子が、プリクラのびっしり貼られた手帳を開いていた。ほかの言葉はどれも語尾がぼやけていたのに、日付を読むときだけ、声がはっきりしていた。
「ルカ先輩とチナツ先輩、イチマルキューの前の機械で。書いてあります。……ですよね、ルカ先輩?」
「う、うん。4月2日。そう」
「さっすがモモ! モモの手帳はハニービーの宝じゃん!」
チナツはしばらく私を見てから、椅子の背にもたれた。「笑わせるわ」そう言って、ストローを噛みながら、まだ私を見ていた。疑いをしまった顔じゃなかった。ちょっと置いただけだ。
トイレの前で、モモが追いかけてきて、手帳のいちばん後ろのページを開いて見せてくれた。
「ルカ先輩、最近よく忘れちゃいますよね? だから……これです。ポケベルは、音で読むんですよ」
いちばん上に、0840、おはよう、と丸っこい手書きの字があった。信号の下で、私の口がつなげたあの音だ。その下に4649。ヨ、ロ、シ、ク。よろしくね。
「それと、テレカは大事に使ってくださいね。カードに出てる数字、それが度数です。残ってる分しか送れないんです。……忘れたことがあったら、私に聞いてください。私が書いておきますから。ほんとですよ」
この時代に来て初めて、誰かが私の味方になってくれた。ルカの味方じゃなくて、何も知らない私の味方に。
夜のハチ公口。緑の公衆電話の前に、長い列ができていた。みんな携帯に乗り換えたっていうのに、数字を送りたい人たちは全員ここに集まっている。吐く息が白かった。
ハチ公、公衆電話。あの人が言ったとおりの場所だった。
私の前の女子高生は、もう十分もボタンを押していた。押しては受話器を置いて、また取って、また押す。あの数字を受け取る誰かが、ちょっとうらやましかった。
順番が来た。カードを差しこむと、小さな画面に50と出た。モモの言っていた度数だ。受話器は鉄の匂いがした。メモの十桁を押しているあいだ、耳もとであの低い声がもう一度響いた。打て。夜に。
ピッ、と信号音。ここから押す数字が、あの人の液晶に出る。
指が勝手に動きそうになった。8、2、8、2。パルリパルリ――韓国語で「早く早く」。お母さんがポケベル時代の話をするたびに持ち出す数字だ。ひとりで、ふっと笑ってしまった。この街にこれを読める人はいない。モモの手帳にも載っていなかった。
8を押す直前で、指を止めた。そして、別の数字を押した。
ゼロ。ハチ。ヨン。ゼロ。
オ、ハ、ヨー。あの人の番号の最後についていた四桁を、あの人に送り返した。
最後にシャープを二回。ピッ。
名前はつけなかった。ルカと名乗るべきか、ジユと名乗るべきか、わからなかったから。画面の50が、49に下がった。
それから、受話器を置こうとした手が止まった。
夢の中の、ひびの入った液晶に光っていた四桁。ゼロ、ハチ、ヨン、ゼロ。たった今、私の指が押した数字だった。
雨の中で伏せたあの人のポケベルが鳴っていた、あの夜も。この数字を送ったのは……私だったんだろうか。
受話器を掛けた。手が少し震えていた。
振り返ったとき、列のいちばん後ろ、コートの裾のあいだに、黒いワークブーツのつま先がちらりと見えた。泥水が乾いてこびりついている。首を伸ばしてみたときには、冬のコートばかりだった。この街に黒いワークブーツなんて、いくらでもあるだろう。なのに、心臓のほうが先に跳ねた。
「アマミヤさん」
背中のほうからだった。ア、マ、ミ、ヤ。一音ずつ丁寧に呼ぶ声だった。
スーツ姿の男が、髪の毛一本乱さずに笑っていた。街じゅうが濡れているのに、革靴の先には水一滴はねていない。
「チーム・ゼロのヘッド、ウシオ・カイと申します」男は軽く頭を下げた。「ムゲンのヘッドから、番号を受け取られたそうですね」
息が止まった。ほんの数時間前のことだ。あの路地にも、あの信号の下にも、こんな顔はなかった。
「……それ、どうして」
「受理されました」
「……何が、ですか?」
「本日午後、ムゲンさんへ挑戦状をファックスでお送りいたしました。ミレニアムの夜の、センター街を懸けまして」男はひとつひとつの文を、最後まできっちり言い切った。声は一度も上がらなかった。「敗れた側は、この街から退きます。期限は、三十一日の深夜零時です」
「それが私と、何の……」
男は答えるかわりに笑った。さっきより、ほんの少し親切に。
目の前に、また緑の画面がついた。今度は一行だけだった。
【世紀末まで残り:30日】
「では、よい夜を」
ウシオ・カイは挨拶まで折り目正しく済ませて、人ごみの中へ消えた。受理されたのが挑戦状だったのか、私だったのか、とうとうわからなかった。
腰のピンクのポケベルを見下ろした。気づいたら、親指で液晶をこすっていた。
液晶は暗かった。
夜に、とあの人は二回言った。夜は来た。私のポケベルは、まだ、鳴らない。
第1話 おわり




