九つ目の鳥居
私は糸を掴んだ。
考えるより先に、手が出ていた。左手で、私の右手首からヒスイの指先へと渡る赤い糸の、ちょうど真ん中を握りしめた。糸は滑り落ちかけていた。ヒスイの指先はほとんど煙になっていて、その煙の隙間から、糸がひと節ずつ抜けていく。アズサ様の槌は、まだ柱の上に振り上げられたままだった。
糸が離れたらどうなるのかは、昨夜聞いていた。それを思い返している暇はなかった。手のほうが、先に知っていた。
私は糸を手のひらにひと巻きした。それから自分のほうへ、ほんの少しだけ引いた。
ちりん。
ヒスイの手首で、真鍮の鈴が鳴った。ヒスイが引いていないのに鈴が鳴ったのは、これが初めてだった。
ヒスイが私を見た。灯火を呑んだような目が一度、ひどくゆっくりと閉じて、また開いた。
「……引いたのは、お前のほうか」
怒った声でも、笑った声でもなかった。自分の手にしかないと思っていた糸の端を、別の手が向こうから握っている。そのことに、今ようやく気づいた声だった。
「そのまま握っていろ。いつ離すか、数えてやる」
煙になった指先から、糸はもう抜けていかなかった。ヒスイの指が掴みきれない分を、私の手が代わりに繋ぎとめていた。
槌は、振り下ろされなかった。
アズサ様は鉄の槌頭を掲げたまま、私たちのあいだの糸を見た。私の手のひらに巻かれたひと巻きを見た。それから槌を帯に差し戻し、手帳を取り出した。今度は、開いた。鉛筆が紙を短く引っかいた。
「巫女様は神の側。記しました」
鉛筆がもう一行書こうとして、紙の上で止まった。アズサ様の目がヒスイの手首へ向かう。真鍮の鈴が、まだかすかに震えていた。
「神が引いたのでは、ないのですね」
問いではなかった。声は相変わらず、物差しで測ったようだった。ただ鉛筆の先だけが紙に触れたまま、動かなかった。
「巫女の側から引いて神を繋ぎとめた例は、当家の記録にございません。何代遡っても、ございません」
手帳が閉じられた。閉じる手が、さっきより半拍だけ速かった。
「例のないことには、記す欄がございません。本日は印をつけるだけだと申し上げました。申し上げたとおりにいたします」
半ばまで打ち込まれた釘は、柱に残されたままだった。アズサ様が踵を返した。
「その釘は抜いていただいて構いません。抜いた手のことは記しておきます。次は釘ではなく、書面を持って参ります」
アズサ様がヒスイの傍らを通り過ぎるとき、今度はヒスイのほうが先に口を開いた。
「シラヌイ。記録にないものをひとつ抱えて下りていくのだな」
アズサ様は足を止めなかった。ヒスイは構わなかった。
「お前の家の帳面に一行書き足しておけ。千年で初めて、神がシラヌイを生かしたまま山から下ろした、と」
子守唄のように低い声だった。アズサ様の背は一度も曲がらなかった。ただ、最初の一段に足を下ろした瞬間、腰に提げた札が一枚、風もないのにひっくり返った。ちゃり、ちゃり、という音は、上ってきたときと同じく一段にひとつずつ、規則正しく遠ざかっていく。五十段ほどのところで、その音がほんの一瞬だけ乱れた。私はそれを聞いた。ヒスイも、聞いたはずだ。
音がすっかり消えてから、ようやく糸を握った手をほどいた。手のひらに、糸の痕が赤く残っていた。
宙に広がった帳簿を見上げる。社の息、ひとつ。その「ひとつ」の墨が、まだ滲みつづけていた。ゆっくりと、けれど止まることなく。
ヒスイは拝殿の縁の端に腰を下ろしていた。釘の刺さった柱から、きっかり三歩離れた場所だ。糸を巻いた手は袖の中に引っ込められていた。いつしまったのか、私は見ていなかった。糸は袖口へ吸い込まれて消えていた。
「手が……」
「どこを見ている」
ヒスイが私の言葉を断ち切った。
「巫女。糸を見ろ。糸はまだ結ばれている。ならばそれでよい。お前は糸だけ握っていればよい」
そう言って、顎で柱を示した。
「あれはお前たちの側の鉄だ。お前たちの手で打ったのだから、お前たちの手で抜け。私の手を借りようなどと思うな」
私は柱の前に立った。
近くで見ると、釘は思っていたより太かった。黒い胴が木目を押し分けて、半ばまで食い込んでいる。外に出た釘頭には朱墨の文字がぐるりと巡らされていて、その縁が刃物のように研ぎ澄まされていた。
指先が、鉄に触れた。
冷たかった。そして、静かだった。
息を止めて待った。昨夜、膝が床についたとき、百年前のあの祈りが立ちのぼってきた。この釘にも、そういうものが残っていると思っていた。打った人の願いとか、せめて恨みくらいは。
何もなかった。
「……何の音も、しません」
自分の声が、妙に細かった。
「祈りもなしに打たれた釘です」
口にしてから、思い出した。昨夜祭壇に供えた祖母の木の櫛も、握ったときはこんなふうに静かだった。私はそれを、まだ読めないだけだと思っていた。祈りなしに打たれた鉄と、音のしない櫛が、なぜ同じ沈黙なのか。あのときの私は、知らなかった。
ヒスイは長いこと、ただ私を見ていた。
「音がせぬ、か」
声が一段、低く沈んだ。
「憎む手であれば、私の顔くらいは覚えていたろうに。その釘は、私を憎みもせぬ手が打ったのだな」
その言葉が、寒々しく聞こえた。百年前、誰かがまさにこの床に膝をついて祈った。今朝の釘は、何も言わずに打ち込まれた。
右手で釘頭を包むように握る。手首の糸がぴんと張った。引っぱった。びくともしない。
左手を重ねて握り、足の裏を柱の根元に押し当てた。もう一度、引く。
釘より先に、私の手のひらの肉がずれた。朱の文字を巻いた鉄の縁が、掌の皺に沿って食い込んでくる。その真ん中で、熱いものが広がった。
「……かしこみ」
食いしばった歯のあいだから、祝詞の頭が漏れた。
「もう、す」
ねじった。木がぎしりと鳴いた。半回転、また半回転。手のひらが裂ける感触が、音のようにはっきりとわかった。血が黒い釘を伝い落ち、柱の木目へと染み込んでいく。
ちりん。
背後で鈴が鳴った。手首には何の力も来なかった。糸は引かれていないのに、鈴だけがひとりでに一度震えた。そのあとは、何の音もしなかった。ヒスイは止めなかった。
私は振り返らなかった。振り返ったら、手を離してしまいそうだった。
私は手を離さなかった。
最後に体ごと後ろへ反らすと、歯を引き抜くときのような鈍い音がして、釘が抜けた。私は灰の上に尻もちをついた。白い灰がぱっと舞い上がり、ゆっくりと降りてくる。手のひらから転がり落ちた釘は、ちぎれた藁縄の傍らに転がった。昨夜私を縛った縄と、今朝この社を縛ろうとした釘とが、並んで。
帳簿を見上げる。
社の息、ひとつ。
滲みが止まっていた。最初のようにくっきりとはしていない。縁が水を吸った紙のようにぼやけている。それでも「ひとつ」は、「ひとつ」のまま残っていた。
手首に糸の重みが戻ってきた。さっき軽くなっていた重みが、元どおりに。袖の中の指が、もう一度糸を握れるくらいには戻ったということだった。
私はヒスイの袖を見た。手は出てこなかった。指がすっかり戻ったのか、いくつかの節だけが戻ったのか、私はとうとう見ることができなかった。ヒスイはその手を見せなかった。その日も、そのあとも、長いあいだ。
目がひとりでに襟元へ上がった。はだけた隙間に残る朱い文字の痕は、消えていなかった。夜明けに降りてきたその場所に、そのままあった。釘を抜いても、そこまでは戻らなかった。
「血の匂いがするな」
ヒスイが鼻先をわずかに上げた。光る目が私の手のひらに降りてきて、長く留まった。白い喉が一度動いた。何かを呑み下すように。縁を掃いていた尻尾の先が、その場で止まった。
それからヒスイは立ち上がった。私のほうへは来なかった。縁の端に沿って三歩、風上へ移って、また腰を下ろした。私の血の匂いが届かない場所だった。
「床に垂らすな。千年飢えたものの前で、血を流すものではない」
夜明けに、私の首筋の上で止まった息を思い出した。その息が今は、風の上にあった。私を避けて。
私は血のついた手を膝の上に置いた。緋袴の上に、もっと濃い赤が滲んだ。
「……はい」
ヒスイは山の下を見た。明け方の街灯がひとつ、またひとつと消えて、朝日がその役目を引き継いでいた。
しばらくして、独り言のように、もう一言だけ届いた。
「……糸を握れと言ったのだ。釘を握れとは言っておらぬ」
遅れてきた言葉だった。声はそのままだった。低くて、震えてもいなかった。ただその言葉が終わるまで、ヒスイは山の下だけを見ていた。私のほうは、見なかった。
「あらまあ、あらまあ、これはいったい……!」
石段のほうから、声が転がるように上ってきた。コハクだった。今日は手桶を提げて前掛けを締めていたが、前掛けの裾の下から、尻尾が一本はみ出していた。
「アヤメ様、手! それですね、わたしに言わせればですね、封じの家の釘を素手で抜いた方なんて、千年で初めて見ましたよ。素手で、ですよ!」
コハクは私の前にぺたんと座り込むと、前掛けの裾をびりっと裂いた。手桶の水で私の手のひらを洗い、裂いた木綿を巻いていく。ひと巻き、ふた巻き、三巻き。
「巻きすぎるな」
風上の縁の端から来た声だった。ヒスイはこちらを見ていなかった。
「手が鈍れば、糸を握れぬ」
コハクがひと巻きだけほどき直した。それから私を見て、目をまんまるにした。何も言っていないのに、その目はおしゃべりよりもうるさかった。
木綿の端を整えながら、コハクが声を落とした。
「山の下のお社がひとつ、この春に閉じたんです。閉じに来たのは、神職会でした。帳簿から名前が消されると、その神様は人の目に見えなくなっちゃうんですよ。そこの眷属のお姉さんと、仲良しだったんですけど」
言葉がぷつりと途切れた。コハクはもう整え終えた木綿の端を、意味もなくもう一度整えた。
「……今は、わたしも、あんまり見えなくて」
「その眷属の名は」
縁の端からだった。ヒスイはまだ山の下を見ていた。
「まだ覚えているか」
コハクの手が止まった。
「……はい。今は、まだ」
「ならば、まだ飢えきってはおらぬ」
その言葉を最後に、ヒスイは口を閉ざした。コハクは答えなかった。鼻をひとつ、すすっただけだった。
私は拝殿のほうを見た。シラヌイの家は、山の下にある。名前ひとつを千年待った神が、その名を聞いても、座ったままでいた。
「なら、ヒスイ様はどうして、山をお下りにならないんですか?」
「あ、これ内緒なんですけどね。主様は、いちばん下の鳥居から外には――」
「コハク」
大きな声ではなかった。コハクの声が、その場で半分に縮んだ。
「……はい、主様」
コハクが手桶を片づけるふりをして、私の耳元に口を寄せた。
「主様ね、朝からずっと、糸を一度も引いてないんですよ。釘が打たれたときから、今の今まで。引くのはですね、アヤメ様がどのくらい離れてるか測ってらっしゃるんですけど、引かないのは、えっと……。それは、わたしも初めて見るので」
縁の端で、ヒスイが首をめぐらせた。朝からずっと山の下ばかり見ていた目が、初めてこちらへ来た。
「コハクの勘定は、千年このかた半分外れる」
コハクは手桶を抱えて、石段のほうへ消えていった。ヒスイの目は、そのまま私の上に残った。
「残りの半分が当たっているかは、訊くな」
私は訊かなかった。ヒスイもそれ以上は言わなかった。代わりに、崩れた塀のほうへ顎をしゃくった。
「塀の石でも積んでおけ」
午後のあいだずっと、私は木綿を巻いた手で塀の石を運んだ。五つ目の石で、木綿に血が滲み出した。
そのとき初めて、ヒスイが縁から下りてきた。足音もなく、塀の陰まで。石ひとつ分の距離に立って、滲んだ血を見下ろした。
「また血だ」
「……はい」
「それなのに、なぜまた持ち上げる」
私は六つ目の石を持ち上げた。
「……まだ、仕事が残っていますから」
「昨夜もそう言ったな。仕事が残っている、と」
ヒスイがわずかに首を傾げた。
「お前たちは、仕事が残っていれば逃げぬのか」
「……行くあてが、ありません」
石を積む手は止めなかった。その言葉を、石の隙間に押し込むようにして言った。
ヒスイはすぐには答えなかった。私が七つ目の石を下ろすまで。
「行くあてがないのと、行かぬのとは違う。お前はどちらだ」
答えられなかった。あの日の私は、そのふたつが違うということさえ知らなかった。
「答えはあとで聞こう。その手で、石ではない別のものを握れるようになったときに」
日が山の稜線にかかる頃、私は箒を手に取った。朝の分ができなかったから、夕方に二回分掃くつもりだった。それから、灰の上に横たわる釘を木綿の切れ端で包み、懐に入れた。
「それを、どこへ持っていく」
「……捨てようと思って」
「捨てろ。鳥居の外にな。私の家の中には置くな」
私が石段を下りはじめると、ヒスイもあとから下りてきた。足音もなく、尻尾の先が石を掃く音だけを立てて。糸は、私が先へ進んだ分だけ張り、ヒスイが追いついた分だけまた緩んだ。
「ついて来られるんですか?」
「私の家から出ていく鉄だ。出ていくところまでは見届けねばな」
百段に、鳥居が九つ。二十年、一日二回ずつ掃いてきた道だった。五つ目の鳥居で、私は耳の欠けた狐の像に頭を下げた。そして、また下りていった。
「六つ」
背後で、ヒスイが数えていた。鳥居をひとつくぐるごとに。
「七つ」
箒の先で、落ち葉が掃き流されていく。
「八つ」
九つ目、いちばん下の鳥居が見えてきた。朱の塗りがすっかり剥げた二本の柱のあいだで、山の下の道が暮れかけていた。私はその下をくぐった。
数える声は、そこで止んだ。「九つ」は、来なかった。
振り返ると、ヒスイは鳥居のすぐ内側の段に立っていた。そこから一歩も、踏み出さなかった。
私はもう一段下りた。山の下の土の道が始まる場所だった。糸が私の手首からヒスイの袖まで、二本の柱のあいだを横切って、ぴんと張った。
「そこから先は、私の家ではない」
ヒスイの目が、私の手へと下りてくる。木綿に滲んだ血が、夕暮れの光の中で黒く見えた。
袖が持ち上がった。糸を巻いたほうだった。けれど、糸を握り直す仕草ではなかった。袖口は糸を通り過ぎて、木綿を巻いた私の手のひらのほうへ、まっすぐに来た。昨夜、指先で私の顎を持ち上げてから、その手が糸ではないものへ向かってきたのは初めてだった。
袖口が、二本の柱のあいだを越えた。
越えた瞬間、袖が夕暮れの空気の中で陽炎のように揺らいだ。袖の中から出てこようとしたものが、出てくる前に煙になった。私の手のひらまで、指を広げたほどの距離。その隔たりを、煙だけが渡ってきた。冷たくも、熱くもなかった。何も、触れなかった。
手首の糸が軽くなった。今朝、釘が打たれたときとまったく同じ軽さだった。
息を呑んだ。昼に途切れたコハクの言葉が、そのときになってようやく最後まで聞こえた。いちばん下の鳥居から、外には。
ヒスイが袖を引いた。ゆっくりと。糸の重みが戻ってきた。
「見たならよい。コハクの口から聞くよりはましだろう」
なぜ手を伸ばしたのかは、言わなかった。ヒスイは私を見下ろしていた。鳥居を隔てた、一段上から。
「昨夜は私が糸を垂らしてやった。今日はそれすら要らぬ。そこから一歩踏み出せば、私はもう追えぬ」
一拍。
そして、糸を一度引いた。軽く。釘が打たれてから初めて、ヒスイの側から来た引きだった。
ちりん。
「……感じるだろう」
さっきより、低い声だった。
引かれた感触が手首を通り過ぎ、木綿を巻いた手のひらまで降りてきた。裂けたところが、糸に沿ってずきずきと疼いた。いつもの返事が舌の先にあった。その言葉の代わりに、別の言葉が出た。
「……痛いです」
ヒスイは答えなかった。一拍、二拍。それからようやく、糸が緩められた。指ひと節分だけ。
行くあてがないのと、行かないのと。昼に投げられた問いが、その場でもう一度浮かびあがってきた。私は懐から釘を取り出した。鳥居の外に捨てろと言われた釘だった。そして、答えようと口を開いた。
そのとき、山の下の道の果てから、灯りがひとつ上ってきた。
提灯だった。揺れながら近づいてきた灯りは、私の足もとから三歩離れたところで止まった。提灯を持つ手は太く、節くれ立っていた。色の褪せた神職装束の袖が、その手首に引っかかっていた。
その提灯を、私は知っていた。昨夜、五つ目の鳥居から見下ろした村の灯りの中で、ひとつだけ離れて灯っていた提灯だった。
サカキ様だった。山の下に残った、この社の最後の神主。昨夜、私を山の上へ送り出した人。
サカキ様は私の顔を見なかった。提灯を少し掲げて、木綿を巻いた私の手を、その手に握られた黒い釘を照らした。灯りは、そこで止まった。
「アヤメ」
地面に取り落とすような、低い声だった。ヒスイが一度も口にしたことのない名前だった。
背後で、糸が音もなく張りつめた。
「下りるぞ。神職会が来る前に」
神職会。昼にコハクが木綿を整えながら漏らした言葉だった。閉じに来たのは、神職会でした。
サカキ様が提灯を下ろした。灯りが土の道にこぼれる。言葉と言葉のあいだの息が、長かった。
「神を帳簿から消しに来る連中だ。巫女のいない社は消される。消された神は人の目に見えなくなって、飢えて散る」
「下りれば、お前は人として生きる」
「残れば、もう下りられん。神のそばに残った巫女が、人として山を下りた例はない。シラヌイの帳面に限った話じゃない」
提灯を持っていないほうの手が、私の前へ差し出された。胼胝だらけの手のひらから、藁の匂いがした。昨夜私の手首に食い込んだ縄は、結び目を引き絞ったのがシラヌイの家だったとしても、綯ったのはこの手だった。
相変わらず、私の目は見ようとしなかった。すまないという言葉はなかった。やるべきことだけがあった。
前には、その手があった。一歩で届く。あの手を取れば、私は生きる。代わりに糸は切れ、巫女のいない社は帳簿から消され、鳥居の内側の神は誰の目にも見えないまま飢えていく。コハクの話した、あのお姉さんのように。
後ろには、鳥居の内側、一歩も出てこられない場所で糸の端を握る神がいた。糸を握れば、私は二度と人としてこの道を下りられない。今朝、私の血の匂いに喉を動かしたあの神のそばで、贄として生きる。
握っていた釘が、木綿越しに傷を押した。昨夜私を縛った縄を綯った手が前にあり、今朝この社を縛ろうとした鉄が、私の手にあった。
糸が一度引かれた。さっき緩めてくれた指ひと節分を、もとへ。
ちりん。
いつも続くはずのあの一言は、来なかった。背後で息がひとつ吸い込まれ、初めて聞く声が出た。
「……巫女。行――」
そこで途切れた。行けだったのか、行くなだったのか。呑み込む音まで、聞こえた。
サカキ様の手は、そのまま私の前にあった。糸は、今度は緩められなかった。
第3話 おわり




